「俺の人生、どこで間違っちゃったんだろう・・・」
泣きはらした目で、夕日を眺めながらそう思った。
都内の某億ション。長年住んで見慣れた30階の景色。
この日、俺は全てを失った。
家も、仕事も、家族も。
「この感覚、昔にもあったなあ・・・」
これから語るのは数年前に起きた、ノンフィクション物語です。
(一部、関係者の迷惑を配慮して脚色が入ります)
19歳で起業、大成功のはずが・・・
初めて起業したのは19歳だった。よくある成功者の話と違って
イヤイヤ、仕方なく起業した。
「そうか、じゃあ仕方ないか・・・」
その頃、俺は専門学校に通っていた。
CG学科。コンピューターグラフィックスを仕事にしたかった。
他の同級生と同じように、遊びながら課題に追われながら
青春を謳歌しながら普通に卒業して就職するものだと思っていた。
でもある日事件が起きた。
母から「話がある」と呼びだされ、薄暗いリビングで言われた。
「お父さんね、とうとう仕事たたむって」
「これまで学費、なんとかしてきたけど、ムリかも。」
普通なら「なんだってー!」という反応かもしれないけど
俺は「そうか、とうとうその時期か」という心境だった。
いつかこの時が来るとわかっていた。
できれば、卒業までなんとか。
それだけ考えていた。いや、それ以外は考えたくなかった。
憧れていた父の背中
父は昔から商業デザイナーとして仕事をしてきた。
出版物の挿絵や、商品のパッケージデザインなど。
「これお父さんが描いたのよ」
ときどき母が嬉しそうに印刷物を見せてくる。
父は俺の中でヒーローだった。
父のようになりたいと思ってグラフィックを勉強し始めた。
でも今から思うと、母を喜ばせたかったのかもしれない。
「これ俺の作品なんだ」
そうやって母に見せて喜ばせたかったのかもしれない。
父の仕事に陰りが見えたのは、俺が高校生の頃。
出版業界もIT化が進み、デザインもデータ入稿が喜ばれるようになってきた。
父の所属するデザイン事務所は古くからの手描き職人ばかり。
仕事が減っていき、古株から順番に辞めていくしかない。
そんな話を父と母が話しているのを耳に挟んだ。
進路を考えるときに、父の事務所にも遊びに行った。
将来自分が進む業界を見てみたかった。
父が所属する事務所は、もう父1人しか居なかった。
順番に抜けていき、一番若い父が最後に残ったそうだ。
「今やってる仕事は○と○で・・・」
父が仕事を見せてくれる。
「他には?」「今あるのはこれだけかな」
「どうやって仕事取ってくるの?」「お得意さんが訪ねて来て依頼してくれる」
「自分からは取りに行かないの?」
「事務所空けてるときにお得意さんが来たらどうするんだ」
「そうなったら別のところに依頼してウチに頼まなくなる」
「じゃあずっと待ってるだけなの?営業とかしないの?」
「俺は生まれてこの方、営業なんてやったことない!文句を言うならお前が営業しろ!」
その時、高校生ながらハッキリわかった。
『どれだけ能力が高くても、時代に取り残されたら食っていけないんだ』
父の事務所がもう長くないことは、その時にはもう感づいていた・・・。
このままでは死んでしまう
頑張りやの母が、ごくたまに愚痴をこぼす。
俺にしか言えないのがわかるので、俺はじっと聞く。
「お父さんね、職人だから、お金のことわからないの」
「自分がいくら稼いでて、生活にいくら必要かわかってないの」
まさかとは思ったけど、自分にできるのはじっと聞くだけだった。
ある時、事件が起こった。
母が夕食を作ってテーブルに並べている時に
父が言った言葉に恐怖を感じた。
「なんだこのメシは、手を抜いてるんじゃないか?」
食卓に並んだ食事はとても質素だった。
モヤシ炒めと漬物と、ごはん。
子供から見ても家計が危機なのがわかる。
「お父さんね、職人だから、お金のことわからないの」
「自分がいくら稼いでて、生活にいくら必要かわかってないの」
まさか・・と思ったけど大げさじゃなかったんだ。
「ダメだ、このままでは死んでしまう」と頭に響いた。
それから1ヶ月後に母から聞かされた
「お父さんね、とうとう仕事たたむって」
「そうか、とうとうその時期か」と思うのもムリはなかった。
その日、俺は専門学校を辞めた。
なぜか起業してしまう
父が仕事を探すも、地方では働き口は少ない。まして50歳近い職人だとなおさら。
母のパートでは当然まかなえないので、俺が働くしかない。
専門学校へ通うはずだった定期券が半年も残っているのがもったいない。
・・・専門学校・・・もしかして。
入学式でしか着なかったスーツを引っ張りだし、電車に飛び乗り学校に向かった。
専門学校の入り口には『バイト募集』の張り紙がいくつも貼ってある。
これは学生課が近隣の企業に要望を聞いて作成しているが、一般求人誌のほうがだいぶマシだ。
インターンのつもりなのか、金額が安すぎる。
その中に1つ、異質なものがあったのを覚えている。
『弊社のHP制作業務・常駐・時間は要相談』
当時はISDNとかウインドウズ98の頃で、Web制作会社なんて存在しない時期。
Webを作りたくてもどこに頼んでいいかわからない時代だった。
学生は独学で自分のホームページを持っている人は多かったが
企業のホームページを作れと言われたら当然怖気づく。
俺は勇気を振り絞ってみた。
とは言っても学生課には申し出ず、募集している会社名を暗記した。
今では殆ど見かけなくなった電話ボックスに入りタウンページを調べる。
「○△商事・・・あった」今ならネット検索だろうが、当時ではまだ引っかからない。
住所を調べ、その会社の扉を叩く。
「すみません、ホームページの担当の方、いらっしゃいますか?」
「えっ!ホームページですか!?」
受付のお姉ちゃんの声が裏返っている。よっぽど驚いたようだ。
「ちょ、ちょっとお待ち下さい・・・」
「常務ー!ウチってホームページってありましたっけー?」
遠くでお姉ちゃんの叫び声が聞こえる(笑)
しばらくすると常務らしき男性が現れて、こう言う。
「すみません、ウチはホームページを持っていなくて・・・」
何故か謝ってくる。
何社かアポ無し訪問してみたが、毎回この展開になる。
そこで一言。
「大丈夫です、私はホームページを作れるので、良かったら作りましょうか?」
「えっ!・・・話を聞かせて下さい」
これで毎回100%受注できるんです。しかも言い値で。
当時の自分にとって思い切った金額「じゃ・・・じゃあ30万で良いですよ」
詐欺から足を洗いたい
当時の企業ホームページは、嘘みたいな作りでした。
「ようこそ○○会社のホームページへ、あなたは○○番目の訪問者です(Sorry,This is Japanese only.)」
そしてメニューが並ぶ。
【会社概要・商品・掲示板・問い合わせ】
(企業サイトにアクセスカウンターや掲示板なんて今では信じられないですよね)
時代とかトレンドは仕方がないしても、これに30万円かけて何が得られるのか。
当時の感覚は『ホームページを持つ』だけで世界中からアクセスが集まる。
そんな根拠もない盛り上がりがあった。
「我が社に救世主が来た!」「これで世界から注文が来るぞ!」
常務や社長がホクホク顔で、俺の肩を揉んでくる。
完成して納品すると、社長や常務は取引先に自慢しまくる。
「とうとうウチもホームページを持ちまして!」
「こんどアクセスしてくださいよ!はっはっは!」
常務の日課ができた。
毎朝、自社ホームページにアクセスして、カウンターがいくつ回っているかを確認する。
「おー!今日は30も回ってるぞ!どこからのアクセスかな!」
(当時はアクセス解析やSEOなどないので、もちろん自慢した取引先のアクセスです)
当然ながら1ヶ月も経つとピタっと止まる。
「昨日からアクセスが1件しか増えてないぞ」
「(常務、それあなたのアクセスです・・・。)」
「どうなってるんだ!誰もアクセスしないんじゃ意味がないじゃないか!」
「通常のビジネスと同じです。これは販促物です。販促活動が必要です。」
「そ、そんなの聞いてないぞ!作るだけで世界中から申し込みが来るんじゃないのか!」
当時はネットは匿名が当たり前。
名前を晒すだけで「検索されて突き止められる!」と根拠もなく怖がられた時代です。
ネット上で買い物や申し込みなんてありえないこと。
申し込みを取るのであれば、郵送チラシやFAXの方がよっぽど確実でした。
カッコつけと優越感のために30万円で作るサービス。
これが当時の自分の感覚。
俺の心は罪悪感で苦しくなるも、家計を支えるために辞められなかったのです。
この時、19歳にして少ないときでも月商100万円はありました。
家族の縁を切って自分の人生を生きる
自分がやっているのは詐欺行為じゃないか?
その気持ちにケリをつける事件が起こります。
母から「話がある」と呼びだされました。
叱られるのかと思いきや、耳を疑う言葉が出てきました。
「お母さんね、夢があるの」
「お父さんと、お母さんと、あなたで会社がやりたい。ずっと夢だったの。」
突然のことで、頭の中がグワングワン揺れる。
激しい葛藤で胸が苦しくなる。
『夢』なんて言われたら、断れないような気持ちになる。
自分の中で『社長』のイメージって
土日も返上してずっと働き詰め。気づいたら30代で苦労で頭がハゲている。
そんな間違ったイメージだった。
「同級生は青春を楽しんでいるのに、俺は家計を支えてハゲるまで頑張るのか」
当然ながら『NO!』のはずが、並ならぬ『母の夢』である。
『NO』がどうしても言えない。
そうだ、父の言い分も聞いてみよう。
再就職が見つからず、食事の時以外は書斎に閉じこもってる父。
大好きで尊敬していた父のはずが、汚らわしい存在になってしまっていた。
「・・・ってお母さんが言ってるけど、お父さんはどう思うの?」
「・・・しょうがないやんけ、やるしかないやろ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがプツンと切れた。
「しょうがないで、俺の人生をギセイにするの?」
「しょうがないでやっても、空中分解するだけだ」
いま思うと、父の真意ではない解釈をしたのです。
無意識的に、ダメになる方向で解釈して自分を守ろうとしたのでしょう。
その日のうちの家族に宣言をしました。
「1年後に家を出ます」
「それまでの生活費は全てなんとかします」
「1年後までに自分たちで生きていけるようにしてください」
「その後の俺の人生は、俺の好きなようにさせてください」
同級生が遊んでるのに自分は頑張って、詐欺まがいで家計を支える。
自分の心が消耗していく感覚がもう辛かったのです。
まだ19歳、家族を背負うには未熟でした。
大事な家族と絶縁してでもしないと、自分が壊れてしまいそうだったのです。
100万円を持って東京に
1年の宣言をしてから、ガムシャラに働きました。
できるだけWeb制作の仕事はせず、もっと他のことでお金を作ろう。
バイトをしたり、サイドビジネスに手を出してみたり。
お金のプレッシャーはありましたが
やっと自分のために生きている感覚があって、充実していた1年でした。
その時に、私のビジネスの師匠『柴田』との出会いがあります。
バイト先の同い年の一見フツーの20歳の大学生。
彼から教わったことで、この頃、いろんな方法でお金を作ることができました。
(この話はまた別のときに詳しく語ります)
ガムシャラに働いて作ったお金。
Web制作はできるだけ請けないようにしたので
そんなに十分なお金は作れませんでした。
必要な分は全て家に入れ、残りは貯蓄。
1年が経ち、21歳の誕生日に家を出ました。
自分の新生活用に100万円。そして実家に100万円を置いて行きました。
自分の中では『手切れ金』のつもりだったのです。
家財を車に積み込み、夜通し走って東京に引っ越しました。
ラジオから流れる、シャ乱Qの『上京物語』がその時の心境に近く
今でもその曲を聞くと、胸がキュッとします。
別に東京じゃなくても、大阪でも名古屋でも良かった。
実家から離れて、自分で生きていけるのなら。
そう思って東京に着いたとき。妙に空気が肌に馴染みました。
「ここから自分の人生、やり直そう」
・・・ゼロから東京でやりなおすユーゴ。
あんな酷なことが起きるなんて、誰も想像もしていませんでした。
ユーゴ物語
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[第3話]景色が灰色になった日
[第4話]海外でホームレス?
[第5話]灰色の人生に彩りを
[第6話] 人生のパターン